何ヶ月かかかって東高校の創立50周年記念アルバムが出来上がった。
地元の人なら良く知っているが、東高はえらく寒い所に立っている。
三原高校と比べればおよそ2〜3度は違うくらいにその当時は感じていた。もっと言うならその30年ちょっと前までは、「お前、三原は難しいかもナ・・・」って先生からおどされた連中が安全策をとって東高に進路を決めていたものだった。
あの当時は偏差値で言ったらいくら位差があったのだろう?
もちろん今は選ぶ選ばない、学区も何とか制度なんかで一概に昔と比べたらいけないが、確かにその寒いと感じた体感温度の違いがイコールあんまり勉強しなかったバツかなとも思いながら背中を丸めて通学していた記憶もある。
仕事で以前にも何回か校内には入っていたので、取り立てて感慨深いものもなかったけれど校舎や体育館、プールは自分が通ってた当時のままだ。
すれ違う学生達も驚くほど良く挨拶をしてくれる。
大人たちが変な先入観で警戒してるだけで、中々どうして良く教育されてるじゃあないか!
アルバムの打ち合わせの何回目かでは、なにやら先生が生徒に大きな声で怒鳴っている。 廊下で女の先生が女子学生にオラんでいる。
「ひゃ〜、イイゾ〜! センセ〜〜イ。」
それにしても一体何時からブルマーではなく、ジャージを単に切り落としただけみたいな味も素っ気もない体育着になったのだ。
動きにくいではないか。 蒸れるではないか。 学生らしくないではないか。
年毎の卒業アルバムには必ずと言って良いほど、キャンプファイヤーやフォークダンスの写真が載っている。 それを編集しながら50年分の記憶を一冊の記念誌にまとめていった。
自分達もフォークダンスの時間は何と言うんだろう、まるで受刑者が夜のテレビ番組を楽しみにしている様に、正にその季節のその曜日のその時限目はウキウキしてたのかも知れない。
男子は応様にアドリブが効かないから踊りの輪の流れにただ乗ってるだけで、運悪く女子の数が足りなくなった時は哀れや哀れ永遠と男子同士が妙な含み笑いをしたまま時を過ごすのである。
今思うに、たかだか女子の手を握るだけでも計算高く、「あとこうこうこういう交差の仕方だとアノ子と組めるとか、いけんいけん、このまま行ったらあの女子と組む羽目になる」とか、どうしてどうして、結構駆引きもあったんだ、フォークダンスって っと思い出す。
50年前の創立時はグラウンドもまだまだ石コロだらけで、新一年生はその後卒業するまで石コロ拾いが続いたそうだ。
決っして裕福そうな制服でも靴でもない生徒達が写っている写真を整理してると当然のことながら年代と共に少しずつ皆んな垢抜けて小奇麗になって来る。
化粧をしだした女子が写真に出てきだしたのは、アルバムから推測するに以外や以外結構遅くて、平成9年位からどうも顔つきが変わって来てる。
ひと学年オール中島美嘉(?)みたいナ〜
今でこそちゃんとした消防士になっている同級生のM君はその30数年前当時大きなバイクに乗ってて、それこそバイク イコール不良と決め付けられてた時代を結構マイペースに過ごしていた。
M君ら2年生が修学旅行に行く日の朝8時頃、彼は友人のバイクの後ろにまたがり慌てて校門まで送ってもらって来た。
が、しかし。
事もあろうに、バイクが横転してM君は足を骨折してしまった。
それも2年生全員がこれからの楽しい楽しい修学旅行に関する説明を聞いていたまさにその校門の目の前で。
彼等二人はコケテ、ズズッーっと悲し気にすべっていった。
当然の如く彼は修学旅行には行けず、当分の間ギプスのお世話になった。
その事故を伝えた翌日の中国新聞の地方版に大きく出た見出しがこうだった。
「修学旅行、 オジャン!」
過去50年の歴史の中にはもくもくとグランド整備をして学校の基礎を築いてくれた大先輩の生徒もいれば、こんな生徒もいた・・・。
それにも増して迷惑だったのは、修学旅行に引率できず骨折したM君を病院まで連れて行った先生かも知れない。
その時新米の先生だったとしても今はもう隠居してる位にはなってるだろうその人は後々受け持った生徒達に、この教訓をどう伝えたのだろうか。