実に驚くなかれ、東京23区内の小学校のトイレ掃除は、子供も誰ひとりしなければ、モチノロンスケ、先生だってそんな汚い事する筈もない。
全部、外に丸投げ、清掃業者が請け負ってるそうだ。
違和感のある学校の和式便器で用が足せず、我慢して我慢して帰宅途中でお漏らしをした所を同級生に見られ、挙句の果てにそれが「いじめ」の一因になったりもする。
「和式便器」は確かに僕たち肥満けた大人達にも、ひとつの脅威だ。
長いこと頑張っていると、両足がシビレまくり一体全体肝心なものが出たのかまだなのか良くわからなくなる。
終わって立ち上がる時、余程用心してないと、力みすぎて終わったハズが、またブリッと出そうになる。
大人でも和式便器のほんの少し外に「ハミ出る」と言うか、便器の中に落とす様に狙っているにも係わらず立上がった時思わず「なんじゃ、コリャ!」と、外に出てる「ヤツ」に怒鳴る時がある。
「何で、俺の言う通りにちゃんと落ちないんだ、オマエは!」と。
そんなこんなで、前の人のそのハミ出た失敗を考え、自分はちゃんとしなけりゃいけないんだとか、次の人の為にキレイにしとかなきゃ駄目だとか、一番子供の時に教えとかなきゃいけない「人への思い」を、トイレ掃除を通じて教えないのか不思議で仕方がない。
いくら保護者が「うちの子にそんな汚いコトを!」と文句を言おうが、先生が貫かなければいけない事のひとつではないだろうか。
それとも「ウンコ」は、「見てはいけないモノ」とでも学校で教えているのか?
自分の「ウンコ」が水洗の水にすぐ流されて見にくくなってから随分経つが、色も形も硬さも何かの混ざり具合もわからなくなった今、その匂い(臭い)も嗅げなくなってきて、いよいよ人間は無味無臭で生きていく生物に成り下がった気がする。
立身出世の講演会では度々トイレの話が出てくる。
「社長自らが毎朝、従業員よりも早く出社し黙々とトイレ掃除をしたから今この会社がこんな不景気な中でも右肩上がりで伸びているんです!」なんて。
今週、三原のリージョンで「青少年育成の集い」と言うのがあり、その中で小中高等学校の発表会があった。 太鼓があり、やっさ踊りがあり、 チアリーディングや寸劇があった中で一番インパクトがあったのが、合唱を指揮したこの先生。
入場時の歩き方と言えば、右手と左足が、左手と右足が20年以上前のロボットの様なぎこちなさだったが、生徒の前に立ったと思いきや一変、一心不乱にタクトを振り始める。
完全にそのオーバーアクションは合唱隊を食ってる。何でアンタがそんなに目立たなきゃならないの?
だけど子供たちと言えばいたって自然にこの先生の棒を受け入れながら、楽しそうに気持ちよさげに大きな口を開けて歌っている。
なんでしょう? この気持ちよさは・・・・
彼らを見てても必要以上の感情はこみ上げては来ないけど、何となく嬉しくなるのは何故でしょう?
自分の子でも孫でもない彼らを見て微笑ましくなる気持ちは、きっとまったくの赤の他人なのに異常に先生と生徒が一体に見えるからだ。
さあ、皆んな歌え! 叫べ! 「君のうんち、今日は何色? 昨日のピーナッツ消化してた?」
さあ、走れ! そしていっぱい汗をかけ! 「今日のトイレ当番は、健二だぞー! さぼんなよー!」 「チェ〜 バレタか〜」・・・・ なんてね。